私が考える幸福の意味

私が考える幸福の意味

2020年11月8日 1 投稿者: マツシタ
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以前、幸せとは何なのかについての記事を書いた。この時は『人生は攻略できる』(橘玲著)で紹介されている内容にのっとって記事をまとめた。だが、私が考える幸福とは、実のところずれがある。

今回は、私自身が考える「幸福とは何か」について語ろうと思う。といっても、この内容も『人生は攻略できる』に書いてあったのだが。でも、今回は参考図書を用いずに、自分の考えを自分の言葉で書いた。だから、『人生は攻略できる』が気になる方は下のリンクから以前の記事を読んでみてほしい。

今回は正真正銘、私が考える幸福論だ。

幸せな人生の法則

 




 

幸福とは、自由である

まず結論から言ってしまおう。幸福とは、自由だと思う

これだけで記事を終えてしまっては意味不明だろうから、これから私がなぜそう思うに至ったかを説明したい。

自由であるということは、何にも依存せず、何にも縛られず、自分が思うままにできるという状態だ。そんな状態があれば幸せなことはいちいち説明しなくてもわかるだろう。でも、実際に生活していくにあたって、私たちは何にも依存せずに生きていくことなどできない。何にも縛られずに生きていくことはできないのだ。残念ながら、完全な自由などこの世に存在していない。

それでも、できるだけ完全な自由へ近づこうと努力することは大事だと思うし、完全な自由を手に入れられなくても少しずつそこに近づいていくことで、十分に幸福な生活を送れると思う。少なくとも、極度の依存・極度の制限が不幸につながることは間違いない。

何かに依存していると、自分に不利な状況にあったり攻撃を受けたりしても逃げられない。ひたすら耐えなければならない。奴隷と同じだ。そういうことをする相手も、相手が逃げられないと知っているから好きなだけ攻撃できるのだ。つまり、極度な依存から極度な制限が生じているのだ。

だから、自分が好きなことをできるという意味での自由を手に入れるためにも、諸悪の根源である極度の依存を断ち切ることが必要になる。そのために大切なのが、経済的自立だ。経済的独立とは、国にも会社にも家族にも依存せずに生きていくのに十分な資産を持っていることだ。この意味で、お金は非常に大切だ。

経済的に独立していれば、理不尽なことが起こればいつでもその場を立ち去ることができる。セクハラを受けたら即座に辞表を叩きつけてやることができる。あまりにもひどければ弁護士を雇って法廷で戦うことだってできる。自由とは、イヤなことに対してイヤだといえることなのだ。

嫌がらせをすればすぐに逃げられて人員不足に陥ってしまうような社会なら、セクハラやパワハラが社会問題化することなんてないだろう。社会の流動性が高まればパワハラもセクハラもなくなるのではないだろうか。

 




 

日本が住みにくい理由

このように見ていくと、自由な社会とは流動性が高い社会のことだ。自由で流動性が高い社会では、各々が好きな方向へと自由に動いていくことができる。そして、各自が理想的な環境を見つけたら、そこで生きていく。共感しあえる人の間で、コミュニティが広がっていく。こんな社会があれば理想的だなと、つくづく思う。

そんな社会を実現するのは難しいけれども、いささか日本は流動性が低すぎるような気がする。日本は「ネガティブゲーム」の社会なのだ。ネガティブゲーム?説明しよう。

 

参入も退出も自由な空間を考えてみよう。この空間で商売をするとき、どのような戦略が効果的だろうか。

参入・退出が自由な空間では、失敗して悪い噂が立ってしまってもさっさと別の空間に移ってしまえばいい。そうすれば悪い噂もリセットできる。ゼロから再スタートできる。

そのように出入りが激しいと、ひとつの空間に非常にたくさんの人が集まることも多くなるだろう。つまり、競争相手がとても多くなるのだ。そうなってくると、人並みに普通なことをしていたら埋もれてしまい、商売にならないだろう。

このような空間で最適な戦略は「失敗を恐れずにチャレンジし、良い評判を獲得する」というものだろう。そうしなければたくさんの人の中から抜きん出ることはできない。それに、もし失敗しても何度でも挑戦しなおせるのだ。このような空間で行われるのは「ポジティブゲーム」だ。

 

一方、よほどのことがない限り出ていくことができない閉鎖空間を考えてみよう。このような空間で商売していくためには、どのような戦略をとるのが望ましいだろうか。

閉鎖空間では一度立った悪評は消えることなくずっと付きまとう。そのかわり、人の出入りは少ないので競争相手は少ないだろう。だから、普通のものを普通に売っているだけで商売が成り立ってしまう。逆に、リスクを冒して悪評が立ってしまうと、一巻の終わりだ。

このような空間では「失敗するようなリスクは取らず、ひたすら目立つことを避ける」という戦略が最適解となる。失敗さえしなければ商売が成り立つからだ。逆に一回失敗して悪評が立ってしまうと二度と消えない。だから、その後の商売は非常に厳しくなってしまうのだ。このような空間で行われるのは「ネガティブゲーム」だ。みんなが保守的で挑戦的なことを避ける、固定化された社会だ。

 

さあ、いかがだろうか。日本はネガティブゲームの世界だということがお分かりいただけるだろう。

ネガティブゲームが行われる閉鎖空間の最たる例が学校だ。一度立った悪い噂は卒業までついて回ることになる。学校でこのような閉鎖空間に慣れ親しんだ日本人は、大人になっても同じような閉鎖空間を形成していく。そうして作られたのが終身雇用制だ。

終身雇用制でもまた、閉鎖的な空間が形成される。一度雇われた会社にずっと務める。このスタイルでは出入りが少なく、悪い噂が立たないようにみんなが消極的な選択をすることになるのだ。

閉鎖的な空間では、逃げられない。逃げられないことが今の日本の生きづらさだと思うのだ。そうでなければ、過労死する前に会社から逃げられるはずだ。追い詰められて自ら命を絶ってしまう前に、その空間から逃げるはずなのだ。

苦しい場所から逃げる。この当たり前のことが、「根性がない」などとして制限されてしまっていることが、今の日本の生きづらさだと思う。

もうネガティブゲームなんてやめて、ポジティブゲームをしようよ。みんなが積極的な方が活気があるし、何よりも楽しいはずだろ。ひとつのコミュニティで「終わった」ら、リセットして新しいコミュニティでやり直せばいいじゃん。ひとつのコミュニティでの「終わり」が、そのまま人生の終わりになるなんて馬鹿馬鹿しい。そんなバカげた社会、やめようぜ。

 




 

あとがき

私の考えこういうことでした。共感してもらえるだろうか。それとも、「根性がない」だろうか。

そういえば、私は最近になって旅行にも一人で行くようになった。誰かと行く旅行も楽しいのだが、私は気を使ってしまうしみんなに合わせていると内心行きたいと思っている場所へも行けない。

日本ではひとりでいることを「孤独」「ぼっち」といって悪いものだというけれど、わたしはひとりでいる状態が完全な自由に近いと思う。誰にも気を遣わず、自分がやりたいことにだれにも邪魔されずのめり込む。なんとも幸せな時間じゃないか。

みんなに合わせることにつかれているのなら、社会というものにつかれているのなら、一度ひとりの時間をとってみてほしい。きっと自由=幸福を味わうことができるだろうから。